『戦争絵画と風景画―闇と光』

 
大正 8 年 2 月 27 日、静岡県南伊豆町一条馬込の地に、父 善吾、 母 なをの四男として生まれた義一は、十代から絵を描き始めた。 美術学校進学を希望していたが、農家の七男一女の四男というこ ともあり、美術学校には進学せずに独学で油絵を描き続けた。
 
山間にある生家の馬込の家は、戦国時代に豊臣秀吉と戦った小田原の北条氏政の家臣、清水上野介が水軍総大将として下田城を守って戦ったが、豊臣方にたばかられて城を明け渡し逃げのびて
隠れ住んだところではないかと言われている。それをあらわすように、山本家の屋号は櫓八丁といい、八丁もの艪を操る船を暗示する呼び名になっている。
明治から山本家は製糸工場を営み、多くの女工たちが働く大世帯の家で義一は育つ。母 なをは製糸場のおっかさんと呼ばれて家業を切り盛りし、大きな石垣のある農家を繁栄させることに貢献したが、太平洋戦争後は絹糸生産ができなくなり、海外からの安価な糸におされて製糸工場はやめている。
山本義一の自画像
 
母親が家業のため多忙で、子どもたちの世話はお手伝いの方や乳母に頼らざるをえなかったころ、幼少期の義一にとって忘れられない事件があった。朝の忙しい時間に、朝餉の準備に追われる女性たちは、食事前にいろりに座る義一に飴を与えていたのだろう。それを見て幼児の妹が飴を欲しがった。義一は口に含んだそれを与えずふたりはもみあいになったのか、妹はいろりの火でや
けどを負い、帰らぬ人となった。このことが、後年の義一のこころに、また絵を描くということに、なんらかの影響を与えたのではないかと、ここであえて、記すことにする。
 
養蚕業をやめてからの山本家は、もっぱらかんきつ類などの栽培による農業を営み、近年は甥の剛の村おこしによって、『一条たけのこ村』として、たけのこ観光の地になっている。
 1938 年(昭和 13 年)3 月、義一は 20 歳で 陸軍(関東軍)に入隊し、満州牡丹江省寧安県 東京職独立守用歩兵第二十大隊第四中隊に 入営。明日は満洲へ旅立つという日、ふるさ との伊豆から乳母が義一に会いに駐屯地(場 所は不明)に訪ねてきたという。母親同然に 世話をした乳母にとって、妹を自分の過失に よって失ったのではないかと悔やんでいる に違いない義一を案じてのことだったろうか養蚕業をやめてからの山本家は、もっぱらかんきつ類などの栽培による農業を営み、近年は甥の剛の村おこしによって、『一条たけのこ村』として、たけのこ観光の地になっている。
 1938 年(昭和 13 年)3 月、義一は 20 歳で 陸軍(関東軍)に入隊し、満州牡丹江省寧安県 東京職独立守用歩兵第二十大隊第四中隊に 入営。明日は満洲へ旅立つという日、ふるさ との伊豆から乳母が義一に会いに駐屯地(場 所は不明)に訪ねてきたという。母親同然に 世話をした乳母にとって、妹を自分の過失に よって失ったのではないかと悔やんでいるに違いない義一を案じてのことだったろうか
 
入隊 3 年後の 1941 年(昭和 16 年)には太平洋戦争が勃発する。 3 月 1 日に関東軍を除隊、翌 2 日には日本陸軍の牡丹江省牡丹江 第四独立守用体司令部に所属する。1943 年(昭和 18 年)1 月、現地 除隊し、新京特別市 大同大街にあった『満洲生活必需品株式会 社』本社人事課に入社する。
 現地で法政大学夜間部 3 年に入学したが、4 年生に進級する前の 1945 年(昭和 20 年)に終戦になり、大学は閉学となる。終戦の年の 1945 年には帰国できずに満州にとどまり、引き揚げを待って暮ら す。

 
この『満洲生活必需品株式会社』発行の写真付き社員身分証明 書証明書が残っている。また昭和 34 年に提出した『外地における 状況、引き揚げの状況等に関する申立書』、『引揚者給付金請求 書』によって、満洲新京特別市大同大にあった当時の会社の住所 や、南新京興亜街の「大鵬寮」という名前の会社の寮に住んでい たことがわかる。
 ようやくみつけた同社の総務課で同僚だった女性(90 歳)の方は、 2018 年にお電話で話したときに「ぎいっさん」と呼んでくださり、 「まじめな方でしたよ、ぎいっさんは」と懐かしがってくださっ た。お住まいの住所近くに行った際に、お目にかかって当時の思 い出話を伺いたかったのだが、ご高齢による体調不良のためそのときは見送りとなり、いまだ果たしてはいない。
 
満州での戦争経験については多くを語らなかったが、牡丹江の湖、鏡泊湖のほとりに滝があり、この地を浦島太郎が竜宮城だと思いこんだという、いわゆるご当地伝説を語ったことがある。
実際、牡丹江にはナイアガラのような滝があり、戦地でなければ風光明媚な土地でもあったかもしれない。しかし、そんな観光気分とははるかに遠い現実があった。
 
当時、日本は満州国を建設し、大陸に進出しようとしていた。 モンゴル人民共和国軍と満州国軍の国境線をめぐっての衝突をき っかけに、日本とソ連は 1939 年のノモンハン事件など国境紛争を 起こす。日ソともに甚大な被害を出し、ソ連の勝利に終わったこ の名高いノモンハン事件に、義一も参加したという。画家の藤田 嗣治が『ハルハ(正しくは漢字)河畔之戦闘』としてノモンハン 事件を題材に絵を描いており、隠れるもののない広大な緑の大地 に匍匐前進してソ連軍の戦車に近づいていく日本兵の死を覚悟し た戦いぶりがわかる。(『画家と戦争』平凡社ムックより複写)
義一は「ピアノ線を張って、傾いた戦車によじ登り、銃鉄で叩いてこじ開けて中にいるソ連兵を引きずり出して戦った」というようなことを言っていた。
 自分よりはるかに優れた相手の装備。圧倒的な軍事力を前に、 大型戦車に轢かれることも覚悟の上の捨て身の人力作戦。悲壮感 と恐怖感、絶望感をも消し去って感情を忘れてただ人間兵器とし て戦うしかなかった、日本兵たちの実態が透けて見えてくる・・。 終戦となり現地除隊したあとの義一は『満洲生活必需品会社』の 同僚の方も散り散りになり、元日本兵であることを隠して生きの びようとした。中国人にかくまってもらったことも、また同郷の 日本人の方の民家で暮らしたこともあった。生活のために豆腐を 作って売り歩くなど苦労したようだ。

終戦の翌年 1946 年、8 月 13 日に、錦州コロ島港から船に乗って 8 月 27 日博多港に。そこから陸路で南伊豆一条の実家にたどりつ いたときの所持金は千円、リュックサックひとつでの帰還であった。
 この引揚船を待って牡丹江で行列する人々を描いたのが、120号の油絵『噫、牡丹江よ!』でる。
 青一色の色調のなかに、人々の群れが描かれている。夜明けを待つ人々を描いているのか、暗い海の底に沈んでいるような印象だ。中央にぼんやりと浮かび上がっているのは、ベールで頭をおお
った母親とその子たちの姿。赤子に乳を含ませている母子像である。しかし、何も食べていないはずの母の乳は出ず、すでに息絶えているだろう赤ん坊の口に、それでも乳首を含ませているのだった・・。 禁 複写
 
ちょうどこの絵は 2003 年のイラク戦の頃に描いていたので、イ スラムのベールをかぶった女たちを描いたものかと義一本人に聞 いたところ、「牡丹江で引揚船を待つ人々の群れを描いた」と言 っていた。そのときには絵の右上に文字は書かれていなかったと 思う。
 このブルーの濃淡のみの色彩で描かれた120号の大作は、それまでの写実的な風景画や人物画、静物画とは明らかに異なり、記憶のなかに深く沈殿していた戦争時の体験が、見聞きした目に焼き付いた像が、長い時間を経て発酵し熟成し、昇華された表現になっていると感じられるものだった。
 戦争で失われた多くの人々、赤子も女たちもそして戦地で死ん だ男たち、戦友たちの魂を慰撫するため、いや自らの魂をも浄化 する鎮魂のための、究極の 1 枚ではないだろうか。
 義一はイラク戦争をおそらくテレビ放映で見て、なにかに刺激 されたのかもしれない。長く記憶の奥にしまいこんでいた、しか し消そうにも消せない戦争体験を、終戦から実に 58 年たってはじ めて絵画という手段によって表現できた。
人はつらいことやあまりに苦しいことを体験すると、そのことを忘れたい、思い出したくないと思う。戦争体験について取材させてもらった沖縄の人々の多くが語るのを躊躇して、それでもなにか伝えておかなくては、とようやく話してくれた。これは被災地の方々にもおそらく重なることだろう。わたしが取材を重ねてきたハンセン病回復者の方々もまた、同じであった。
 3.11震災の被災者のカウンセリングにあたった専門家のインタビュー記事によれば、当事者が体験したことを「物語」として話すことができるようになれば、心の傷は少しずつ癒えていくという。。
義一もまた、終戦から実に 58 年たって、ようやく戦争体験を絵 画という「表現」によって語ることで、こころを癒すことができ たのかもしれない。それは、それだけの長い時間を経なくては自 らの戦争体験を客観視できないともいえるし、戦争というものが 人間の心身に与える影響の大きさ、『人生被害』(ハンセン病国賠 訴訟裁判の画期的な熊本判決の一文)というものについてもまた、 考えさせられるものだった。
その後、この 120 号の絵には『噫、牡丹江よ!』と白い絵の具 でタイトルが書かれていたのを見た記憶がある。サインはなかっ た。しかし、このあと、この大きな絵は枠から外されていた・・。

義一の人生を振り返ってみれば、自衛隊に入隊後は静岡県御殿場市、東京都練馬駐屯地、市ヶ谷駐屯地と転勤を重ねた。(ちなみに三島由紀夫割腹事件のときに総監室で三島の刃を受けて指を失った方は義一の同僚で友人だった方で、義一はもう市ヶ谷勤務を辞した後だったが、病院にクリスマスケーキをもってお見舞いに行くと言っていたことを鮮明に覚えている)
辞職前の仕事が、自衛隊員が退職後に民間企業に勤めるための講習を受け持つ教官だった経験ゆえか、東洋精密株式会社に招へいされてからは、保谷市(現西東京市)に住み、その会社の定年後は故郷の南伊豆の風景を思わせる神奈川県二宮町に移住この地で、絵画教室を開き、お弟子さんたちと湘南の風景画を 描いたり、遠く長野県や谷川岳などへも絵を描きに行き、まさに 絵三昧の人生を送った。義一は戸外で絵を描くときは、すでにロ ケハンしておいた場所にお弟子さんたちを案内して、自身の絵を お手本に見せたというが、「描くのがとてもはやかったんですよ」 とお弟子さんたちは言っており、精力的に絵を描いていたようだ。
神奈川新聞社賞、県知事賞などの賞を受賞した作品もあるようなのだが、そういう絵に限って上から絵の具を塗ってエスキースにしてしまったものが多く、本人はそのような評価よりも自分自身の基準のほうが大切だったのではないかと、いまにして思う。
 銀座での『ギャラリー ギンゴ』での初個展を皮切りに、会社員時代から所属していた『新槐樹社』『光風舎』『示現会』の展覧会にも出品していた。地元二宮町や茅ケ崎でも毎年展覧会を開き、制作に打ち込む日々だったが、この『噫、牡丹江よ!』が展示されたのかどうかは、定かではない・・。

2014 年 11 月 5 日、山本義一、他界。
 通夜の日、葬儀会場に絵を展示しようと思いつき、アトリエに している部屋を探すと、枠から外され、カンバスがぐるぐるに巻かれてあったこの絵をみつけた。そのままの状態で、竹富島の風景画、湘南の風景画、伊豆の生家、二宮の自宅を描いた絵などとともに運び込んで飾ってもらい、参列者の方に絵をみていただきながら義一をあの世へおくることができた。
このあと気がついたのだが、中央の母子像のなかの幼児の表情が、こんな悲惨な状況にあるにもかかわらずおだやかな満たされた顔をしているのだ。義一は亡くなる直前に、病室に見舞いに来てくれた甥に、やけどで亡くなった妹の墓のことを尋ねた。甥が墓を開けたときに石板に父の妹の名前が彫ってあったというのを聞いて、こころから安堵していたことをありありと思い出す。
 『噫、牡丹江よ!』の中央に描かれた母子像の、お地蔵さんにも 似た幼子の姿は、義一が亡くした妹の姿を重ねて描いたのかも知 れなかった・・。
満州に9年間滞在し、その青春期をほぼ戦争についやしたと言える人生は、この絵を画くことで、戦争体験を客観視し、魂の浄化とでもよぶべき過程を経たように思う。そして、戦争体験画に着手する前に描いた沖縄 竹富島の光と影をとらえた風景画は、戦争体験を暗(影)とすれば、桃源郷のような明(光)の世界として、対極にあるものだ。 沖縄という唯一地上戦のあった土地へ行くことには複雑な思い もあったと思うが、竹富島滞在の実質 3 日間で義一は精力的に絵 を描いている。おそらくここで、戦争という記号を押された沖縄ではないオキナワを見て、島人の暮らしに触れて、とても癒されたことだろう。 1 月とはいえ日差しの強い戸外で、78 歳が自転車の荷台にカン バス数枚と油絵の具を積んで絵を描くというのは、体力を消耗す るものだ。
フクギの樹の木陰で、民宿の朝食の残りご飯で娘が握ったおにぎりを広げるその姿を見て、室内に招じ入れ飲み物を提供してく れた島人のことを、義一はとても感謝していた。その方はのちに 神司になったのであるから、なんとも不思議な気持ちになる・・。 身なりをかまわない義一のいでたちは山下清のように見えただろ うに、「てーどうん」の包容力と「まれびと」に偏見をもたずに接 してくれる態度に深く感銘を受けたのではないだろうか。以後、 竹富島のテレビ放映があると、懐かしがって妻にそのときのこと を語っていたという。
3日間の滞在を終え、帰る日の朝、民宿のお母さんに披露した絵 は 11点あった。 自宅周辺の風景を描いたシリーズ『湘南の海のある風景』の絵をみると、海のある風景はふるさとの伊豆を連想させ、晩年の義一の心を癒しただろうと思う。同じく、竹富島の風景は戦争で傷ついた義一の心を慰撫したに違いない。島人の「まれびと」に対するやさしさ、それを感じたからこそ短い時間で多くの竹富島の絵を残したのではないだろうか。
 2015 年は戦後 70 年の節目の年。
 多くの戦争体験者の方々が物故者となられている今、体験者の 伝えたかったこと、戦争が個人の人生に与える影響とはどういう ものなのか、絵を通して若い人たちにも感じてもらえればと思う。
世界のあちこちで、今も紛争が起こり、戦争が行われている――。

 

●追記


 2019 年 1 月、前年秋の台風のため義一のアトリエに至る階段上 の天井内壁が崩落しました。義一の甥や姪が伊豆から来て手伝っ てくれ、アトリエの大きな絵を整理したところ、『噫、牡丹江よ!』 の別バージョンの絵が発見されました。

禁 複写
 カーキ色で描かれた 80 号のエスキースの右上には『噫、牡丹江 よ!』と描かれており、兵士たちが一列に並ぶ前を母子が逃げま どうシーンが描かれています。このリアルな戦争画を描いている うちに、なにか心境の変化があったのでしょうか。この絵を仕上 げることなく、途中で、青の『噫、牡丹江よ!』にとりかかった と思えます。
 そして、カーキ色の絵から感じとれる恐れや怒り、恨みといっ た生々しい感情を浄化させて、祈りや鎮魂が込められた(ように 感じられる)青一色の『噫、牡丹江を!』を完成させたのでした。
この二つの絵を並べてみると、絵を描くこと、つまりは表現という行為は、こころの癒しや魂の救済といった効用をもたらすのではないかと思えてきます。人は体験を表現することでこころ癒
され、みる人もまた癒しを得る・・。芸術のもつ本質的な力が、そこにあります。

●沖縄県竹富島を描いた『竹富島の赤瓦屋根の集落と星砂の道』


●自宅のある神奈川県二宮周辺の『湘南の海のある風景』